最近のこと(20230904)
最近のこと。
オカンが亡くなって、弟にいろいろとやってもらい、荼毘に付すことが出来た。
まだまだ手続きが残ってはいるけど、一区切りとなる納骨までは恙無く済ませられそう。
気持ちは、多分落ち着いてない。
いつも通りに何も出来ていない。
酒の量が増え、やらなければならないことを最低限でクリアする毎日。
そんなこと、誰も望んでないし、妻も娘も普通に接してくれてはいるけど、きっとダメな方にずっと進んでいる。
どこかで区切りをつけられるのかどうか。
オヤジの住んでいる家を引き払う必要があるので、入院しているオヤジに会いに行った。
相変わらずせん妄が激しくなる一方で
俺の住む家がなくなってしまう。
これからどうすればいいんだ?
荷物はどうなるんだ?
そして、なぜ俺は入院しているんだ?
と、話を理解しているのかしてないのかわからない問答(?)が続く。
そして、オカンが亡くなったことを話すと、一瞬だけマトモな顔になった。
でも、それに続ける言葉は何もなかった。
結局、オヤジの部屋から救済するモノは、包丁類と鍋類だけになった。
継母が残したモノとか、隠し通帳とか、そういうモノはない。と言ってはいたが、一応捜索はしないといけないかも。
9月の下旬に、5月に亡くなった伽羅の納骨と、鈍の法事に出かける。
死んでしまうこと、という意味がわかるようになってきた娘が、どういった反応になるか?が非常に気になってしまうけど、それはそれで心の成長に必要なことだから、しっかり受け止めてあげたいと思う。
多分間違いなく俺は、何も感じられないまま一日を過ごしてしまうと思う。
そういう人間だから、もうそれについては諦めに近いものがある。
今日はすき焼きを作る。
昔、すき焼きはめちゃくちゃごちそうだった。
ちゃんとすき焼き鍋が家にあるなんて、当時は普通だったけど、今はフライパン。
形見分けのときに、すき焼き鍋があるか見てもらったけど、既に処分されていた。
オカンが一人で使うわけもなく、鉄鍋だから重いし錆びるし。仕方がないことだったかもしれない。
でも、きっと、そんなすき焼き鍋が、俺のわけのわからない精神状態や心の鈍重さを変えてくれる鍵だったかもしれないと思うと、失ったモノの大きさをずっしり感じた。
貧乏だったけど、幸せを感じることが出来た時代の遺物。
妻も娘も、すき焼きに思い入れなんてないかもしれないけど、美味しいし、食べてもらえればそれでいい。
そんなことを考えながら、毎日を過ごしています。